私の長女の病気であるダウン症候群について、医師・看護師を志す皆様方にこうして親しくお話しする機会を頂けますことを、心から感謝申し上げます。
娘の園子は昭和60年1月5日、初雪の降る早朝、この世に生を受けました。私ども夫婦にとって初めて授かる子供であったと共に、妻の両親にとっては、初孫でありました。最初に身籠もった子を流産で亡くしていたこともあって、待つこと久しい「希望の星」として誕生したのです。親の欲目と笑われますが、愛らしい女の子でした。身長・体重もそう小さかったわけではありません。
最初の兆しは、母乳の飲みの弱さとして現れました。出産した産婦人科医院の院長先生が時間をかけて診察してくれている様子に、少し不安がよぎりました。
果たして退院の前日、院長先生はおっしゃいました。
「お子さんはダウン症候群である可能性があります。病院で染色体検査をお受けになるよう、お勧めします。」
人はこの星に百年の修学旅行に来たのだ、という言葉があるそうです。もしそうだとすれば、その旅行は、様々な景色を楽しむことよりも、色々な人との出会いを経験することに意義があるように思います。中でもわが子との出会いほど神秘的なものはないでしょう。還暦を目前にして私は、人間一生の仕事は、命の奇跡に覚めることではないか、と感じています。そして、その命が尋常でない場合ほど、人生の感慨はよりいっそう深みを増すに違いない、と。
娘・園子は千分の一の確率で、ダウン症候群という先天性の疾患を持って私どものもとに生まれて参りました。動脈管開存症と肺動脈高血圧症の合併症を治すために、国立循環器センターから県医大に来られたばかりの内藤教授のご執刀で、1歳4ヶ月のとき心臓手術をして頂きました。そのおりに麻疹を発症、40度の高熱が一週間続きましたが、持ち前の生命力で乗り越えることができました。2歳3ヶ月にしてようやく歩き始め、統合教育を実践する私立幼稚園、公立小中学校の少人数学級、和歌山大学教育学部附属養護学校(現・特別支援学校)の高等部を経て現在、知的障害者のための作業所に通う毎日です。
今、私の妻はほぼ毎週週末、園子と共に大阪府豊中市の実家に赴き、両親の介護をしております。87歳の父親は、下肢血栓のために片脚を切断しなければならない瀬戸際に立たされたり、腎機能低下で透析が必至かと思われたりした時期もありましたが、なんとか乗り切ることができました。85歳の母親もおぼつかない足取りで階段から転落、骨折して、寝たきりになってしまうかと危惧したのですが押し車を押して買い物に行けるまでに回復しました。二人のめざましいがんばりに、孫の園子が少なからず貢献しているように思われます。
園子はさりげなく祖父のベッドサイドでその手を握ります。カラオケの練習に余念がない祖母の傍らで、その歌声にしきりに耳を傾け「上手やな」とささやいて、否応なくモチベーションを上げます。園子の祖父の口癖があります。
「病気に負けずに頑張っている園子を、わしらも見習わにゃいかんなあ。」
園子はパラドックスに満ちた存在です。
中学校に通っている頃、ずいぶん饒舌であったのに、ある時期からほとんど会話が成り立たなくなりました。少ない語彙、というより「つぶやき」に近い園子の口癖を、私ども夫婦は「元気の出る園ちゃん語」と呼んでいます。大声でそれらを真似ると、不思議に元気が湧いてくるからです。
先天性疾患といいながら、心臓の手術と、その直後のはしかでの入院以降、定期的に主治医の診察を受ける以外に、園子は大きく体調を崩してお医者様に診て頂いたことが、一切ないのです。
園子にダウン症候群との診断が下ったとき、目の前が真っ暗になりました。それは私の価値観を一変させるほどの衝撃的な事実でした。もう私の人生は終わってしまったのか、と思うくらいの落胆と失望に打ちのめされました。その失望は今にして思えば何の根拠もないものでした。人は、病気によって不幸になるのではないのです。病気の受け止め方によって人の運命は一変するのです。
最近の私ども夫婦の合い言葉は、次のようなものです。
「これから園子と一緒に老後を過ごせるかと思うと、わくわくするね。」
園子の誕生で不幸のどん底に落ちたかと思われたのに、今は限りない幸福をもたらしている。これが数ある園子のパラドックスのうちでも最大のものです。
《2011年11月22日 和歌山県立医科大学三葛キャンパスにて》
〔心兪(しんゆ)〕背骨の両側に並ぶ「背部兪穴」といわれる重要なツボの一つ。
取穴:肩甲骨最下部を結ぶ線と背骨の交点から胸椎2個上で、左右1寸5分。
治効:血液循環に関わる諸症状に。ダウン症は心臓の合併症を伴うことが多い。
《作者から一言》和歌山県立医科大学の1年生を対象に、ダウン症候群のお話をさせて頂くのも今回で5回目。これも園子のお陰と感謝しています。(宮本)

